教員をしていて次のような悩みはありませんか。
今回の記事はこのような悩みをもっている方に共感していただける記事です。
長時間勤務によるうつ病、保護者からの苦情、パワハラを経験した私が教員や学校の役割について考えたことを書きました。
同じ悩みを抱える方に読んでいただけたら幸いです。
「揃える教育」と「違たがえる教育」
学校教育には、教師が指導性を発揮してすべての子供に基礎・基本を共通的に身に付ける側面、すなわち、「揃える教育」と、一人ひとりの主体的な学びを尊重する側面、すなわち多様性を最大限生かしながら「違える教育」がある。
(北俊夫『「揃える」と「違える」』、『内外教育』、2023年7月11日付、時事通信社)
この記事を読んではじめは共感しました。「その通りだな」と思いました。
しかし、しばらくして思いました、「揃える教育って求められているのだろうか?」
「揃える教育」は求められているのか
私は「揃える教育」は求められていないと思います。
なぜなら揃えようとすると反発があるからです。
例えば校則です。
理不尽なものや理由が不明確なものは改善されるべきですが、学校が理由があって設定しているルールに対して反論があります。
反論して学校の指導に従わない者もいます。
学校のカリキュラムポリシーに沿った校則であっても納得してもらえないことがあります。
このことから学校に「揃える教育」が求められていないと感じています。
「揃える教育」が求められていない理由
「揃える教育」が求められていない理由につながる内容を橘玲著「バカと無知」で見つけました。
本書に次の文がありました。
リベラル化によって誰もが「自分らしく」生きられるようになれば一人ひとりの利害があちこちで衝突し、人間関係は複雑になっていく。政治は利害調整ができずに渋滞し、行政システムは市民から批判されないよう巨大化・迷宮化し、ひとびとの「生きづらさ」だけが増していく
政治を学校、行政システムを教育システム、市民を生徒・保護者に変えれば学校に当てはまる内容になります。
また次のようにも述べられています。
社会のリベラル化が進み、生徒が教師と対等だと思うようになると、叱責は自尊心への攻撃と見なされる
「自分らしく」を認めるあまり、学校も教員も生徒を指導しにくくなってしまいました。
指導を自尊心への攻撃と見なされる可能性があることも指導のやりにくさに繋がっています。
生徒が教員に求めているもの
生徒が教員に求めているもの第1位は「わかりやすい授業」(注1,2)だそうです。
しかし授業をすると「揃える」必要がある場面が出てきます。
「揃える」ことが求められていないのであれば、どのようにわかりやすい授業をすればよいのでしょうか。
さらに以下の記事に書いた子どもの多様性の問題もあります。
わかりやすい授業は1人の教員には不可能だと思います。
(注1)橋本尚美、2015、「第70回 子どもたちの声から「教師」の仕事の意味と魅力を考える」、ベネッセ教育総合研究所ホームページ(2023年10月17日取得、https://berd.benesse.jp/shotouchutou/opinion/index2.php?id=4644)
(注2)小柴孝子・武田明典・村瀬公胤、2014、「中・高校生が求める理想の教師像」、『神田外語大学紀要』第26号:489-509、(2023年10月17日取得、https://kuis.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/KUIS26-21(koshiba&Takeda&Murase).pdf)
まとめ:何が求められているのかわからない
「揃える教育」は求められていないのではないかということを書きました。
生徒が求めている「わかりやすい授業」を教員1人で実現することは難しいと思う理由についても書きました。
仕事をしていて学校の役割、教員の役割について悩むことがあります。
学校や教員は何を求められているのでしょうか。
コメント